読書について本文

 数年前、ヨーロッパのいくつかの新聞が、自宅に立派な書庫を作りたいという人が「揃えるべき百冊」にどのようなものがあるでしょうか?というアンケートを取っていた時期がありました。
 その回答を見てみると、聖書と『ロビンソン・クルーソー』、ホメロスとホレス、ダンテとシェイクスピア、ホルベルグとオーエレンシュラーガー、ゲーテとミッキーヴィッツ、ラシーヌとパスカル、アラーニとペトフィ、セルバンテスとカルデロン、ビョルンソンとイプセン、テグナーとルネベリなど、それぞれの国や人好みな特徴的なリストが並んでいます。
 
 そもそも、一人ひとりにとって最高の本が百冊もあると考えるのは幼稚な考えです。
 この世で最もシンプルで強力な体験は、非常に優れた作品が、ある人を深く感動させる一方で、他の人には感動を与えることはないということであり、若い頃、強い影響を受けた本が、晩年にはその影響を失うことがあるということです。
 つまり、すべての人がいつまでも読める本など、事実上存在しないのです。
 こういう事実が、いっこうに顧みられないのは、今日一般的に読むことができて、読書を楽しみ、その読書から何らかの利益を得ていると言える人がほとんどいないためです。
 読むことができる百人のうち、九十人は新聞しか読んでおらず、さらにそのほとんどの人は、特に注意深く読むこともなくただ文字を追って読んでいるだけ。
 それはおそらく、特別な注意を払うに値しない読み物を選んでいるためだと思われます。
 ではなぜ、彼らは読んだ内容を忘れてしまうのでしょうか?
 誰もが次のような言い草を思い出すはずです。
  「私には読んだことをすべて忘れてしまうという不幸な才能を持っているんです。だから、この本やあの本のことについて、何年か前に読んではいるはずではありますが、私と話をしてもつまらないですよ。」と。
 結局のところ、多くの人は、真剣に読むということをせず、真剣に読まなくてもいいような本しか読んでいないのです。
 そして、多くの人たちは、完全に理解するということに慣れていません。
 例えば、若い人たちは海外の本を読む際に、理解できない単語について毎回辞書を引くという行為をすることはほとんどありません。
 そういう人たちは、文章の前後の意味で推測しているのだと思われます。
 これは言い換えれば、本全体の半分だけ理解していることであって、それで十分満足している証拠でもあります。
 いかなるときであっても、それ以上を理解しようしようとは思っていないのでしょう。
 つまり、作家は、自分の文章が外国で出版される場合でも、その部分を曖昧なものにされる誤訳に気を使う必要はありません。
 なぜなら、誰もそのことに気づかないのですから。
 そして、どうしても理性でだけでは理解できないような作品、例えば抒情詩のようなものには、読み手はたいてい最初から著者の意図するところを知りたいとは思っていません。
 
 私の知人は、婦人会の集まりで、ゲーテの『神とバヤデール』を朗読するのに、各節の最後の行から始めて、逆に向かって読んでいくという実験を試みたことがあるそうです。
 韻は途切れることなく、詩の旋律はすべて保たれ、誰もが魅了されました。
 彼女は身を屈め、身をくねらせ、そして彼に花束を渡した。
 彼女は愛らしく縁を描いて歩き廻り、ダンスのためにシンバルを叩き始め、そしてこれは卑しいなりわいの家であった。
 このことから大体のイメージは掴めましたが、それ以上のものを期待してはいません。
 特に外国語においては。
 婦人たちもまた、婦人たちが理解できた以上のものを理解しようとは思っていなかったのです。
 これと似たような現象を少し考えてみると、すぐに次のような疑問が湧いてきます。
  なぜ、本を読む必要があるのでしょうか?
  何を読めばいいのでしょうか?
  どのように読めば良いのでしょうか?
 こうした問いを考えることは、余計なことでも、無駄なことでもありません。
 私は海外で高い地位を築いている裕福な家庭、一定の地位を築いている家庭からの招待に何度か応じたことがあります。
 その中で、たびたび、大都会に住まれている芸術界隈では名の知れた家に招かれる機会がありました。
 その時、私は家に本棚や書棚を見たことがないことに気づきました。
 私は、「なぜ、本棚や書棚がないのか?」と尋ねたところ、「書棚も本もないし、書斎のテーブルの上に2、3冊置いてあるだけですよ 。」と答えたのです。
 すかさず私は、「でも、読書はされるのですよね?いや、かなりの量、お読みになっているはずですよね?」と尋ねました。
 すると、「ええ、もちろん」と答え、 「ご存知のとおり、私たちはよく旅行しますし、年間を通して非常に多くの本を購入します。しかし、いつもネットの中に置き忘れてしまうのです。」※ネット:鉄道車両のネットのこと
 その理由として「人は一冊の本を複数回読むことなんてないですよね。」と答えたのです。
 
 そのときもし私が、読書において、他の領域ではともかく、一度しか読まないというのが不変ルールであり、良い本であっても一度しか読まないという人であれば、
 
 その人はその本についてほとんど知らないということですよ。もしそうでなければ、また同じ本に戻ってきていることでしょう。と答えてしまっていたら、大きな驚きを与えていたことでしょう。
 私が大切にしている本は、十回以上読むことも珍しくありません。
 場合によっては、何度目かわからないこともあります。
 つまり、私はその本をほとんど暗記してしまうので、、そのようなことができたいないというのであれば、本当の意味で、その本のことを理解できていないということになるでしょう。
 資本力があれば自分の本を所有するべきです。
 
 資本力があっても、本を一冊も持ってない人はたしかにいます。
 私は以前、海外のマエセナスという美術コレクションを持つ人の家に招かれたことがあります。
 その人の美術コレクションの価値は相当な額のものばかりでした。
 絵画を見終わったあとに私は、「あなたの蔵書を拝見したいのですが、どこにあるのですか?」と尋ねると、彼は少々険しげにこう答えました。
 「本は集めておりません。」と。
 彼は一冊も本を持っていなかったのです。 
 本に関しては、図書館の貸し出しで満足する人たちもいます。
 ドイツのような大国のどの温泉場でも、高価な服を着た女性たちが必ずといっていいほど、回覧図書館の脂ぎった小説を手にしているのを見かけるのは、文化の失敗と趣味の悪さの確かな兆候です。
 ドレスを借りたり、古着を着たりすることを恥じる彼女たちは、ためらわず本に対しては節約をします。
 その結果、彼女たちは次から次へと小説を読み漁り、最後の小説が以前の小説に取って代わっていくのです。
 どんな本であっても二度と読まないのです。
 ドイツ帝国において、最高の地位にある婦人たちでさえ、ニコライ図書館から本を借りているのです。
 「私は本を集めていません」と答えた男性もまた、読書の必要性を感じていませんでした。
 彼は裕福なブルジョワ階級に属しているのですが、その階級の男性たちには新聞以外のものを読むことはないのです。
 読書のための時間も作っていなければ、蔵書を集めることもしていないのです。
 学者以外で、読書に対する強く情熱的な愛を持っているのは、主に、読書のための時間も手段も持たない人々、中流以下の階級、職人、労働者だけなのです。
 彼らの間には、いまだに知識欲が溢れています。
 この知的欲求こそ、百年前に裕福な市民階級の誇りだったにも関わらず、一気に消え去ってしまいました。
 では、なぜ読書をしなければならないのでしょうか?
 この質問こそ、最初に答えが必要な問いなのです。
 私自身は、読書を通じて得られる知識を過大評価するつもりはありません。
 多くの場合、読書は、結局は自然と人生などから経験することを補うものに過ぎません。
 詳細かつ包括的な旅行記を読むよりも、広く旅行する方が役に立ちます。
 
 また、人を知るには、書物で調べるよりも、実生活で人を観察するほうがはるかに深く知ることができるはずです。
 さらに言わせてもらえば、彫刻、絵画、デッサンは、偉大な芸術家の作品である場合、大多数の書物よりもはるかに有益です。
 ミケランジェロ、ティツィアーノ、ベラスケス、レンブラントは、人間について、図書館の多くの蔵書よりも多くのことを教えてくれます。
 本はせいぜい理論しか提示できません。
 医者が医者になるためには、医学書などを読んでいるだけではだめで、患者と接し、研究しなければいけないように、人生についても自分で経験しなければ、書物からは何も学ぶことができないのです。
 もし私たちが自分独自の人間についての知識を持っていなければ、一編の小説を楽しむことさえできません。
 
 その小説が物事をありのままに描いているのか、それとも間違っているのかを判断することもできないでしょう。
 その証拠に、一年を通して、良書を否定するような愚かな批評を耳にすることがあります。
 「あんなことを感じたり、行動したりする人はいない。」というのは、ごく一部の人間しか知らず、周囲の人々の心の中で起こっていることを何も理解できていないその場しのぎの人なのです。
 そのような人は、その本がたまたま自分自身が知っている現実の外にあるために、その本を貧弱で非現実的なものだと言っているだけなのですが、彼らの現実と真の現実とを比べてみれば、いわばアヒルの池と大海とに差があることすら気づけないでいるのです。
 
 私たちは、本の知識を鵜呑みにして、何らかの知恵にたどり着けると信じてはいけません。
 良書に含まれるわずかな知恵を理解し、自分のものにするためには、多くの資格が必要なのです。
 
 一方で、本には人間にはない利点があることも事実です。
 本には、思考を促してくれますが、人間のほうはそうはいきません。
 本は、こちら側が聞かない限り、沈黙を守ってくれます。
 思い出してみてください。厄介な人たちの訪問を受けた時のことを!
 私の書斎は七千から八千冊の本がありますが、私にとって一度も煩わしいと思ったことはありませんし、楽しませてくれるものばかりです。
 ゲーテの次の言葉を大衆に当てはめたくなることがよくあります。
 「もしこれが本だったら、私はこれを読まないだろう。」
 極めてありきたりな見解を許されるならば、私たちはまた、自分よりも偉大で有能な他の人々の経験を自分自身の経験に加えるために読むべきです。
 私たちが読書をすべき理由は、科学の世界では、何世紀にもわたる研究と調査が、明確で凝縮された形で私たちに提示されるからであり、文学の世界では、他の方法では知ることのできない独特の美と、美を愛する個性に出会うことができるからです。
 読書には、物事の価値をより鋭く、より感受性を高める力があります。
 
 さらに、読書が単なる無邪気な娯楽にすぎないとしても、日常生活の疲れや単調な労力の中では価値があります。
 
 純粋に娯楽のための読書であっても、それが本当に面白いかぎり、決して軽蔑されるべきではありません。
 多くの人は、より良い男性や女性になるために読書をすべきであり、文学的な本を犠牲にしても、道徳的、教訓的な本に重点を置くべきだと要求するでしょう。
 または、どんな本であっても道徳的に作用しなければならないと要求するはずです。
 読書を通じて、人がより良く成長する可能性があることを否定するつもりはありません。
 成長するかしないかは、主にその人の読み方に依存しており、私たちはまだその問題を論じられるまでに至っていないのですが、その話は後にしましょう。
 しかし、一般的に言えることは、この世界のなかで私たちをより良くするのに教訓的な本や言葉ほど、不適当なものはありません。
 叱り続けることで子供を育てることができないように、いつまでも説教し続けることで人格を成長させることはできないのです。
 また、道徳的な本も手本にはなりません。
 子供の頃から、利己的に振る舞ってはいけない、卑しい考えを持ってはいけない、嘘をついてはいけない、騙してはいけない、傷つけてはいけない、殺してはいけないなど。
 私たちはこれらの教えをよく心得ているため、それがひとつの文学作品の中で書かれていたとしても、何の感銘を与えてはくれないはずです。
 私たちは著者に対して、私たちを善に導いてくれと要求する権利はないのです。
 これは著者に負担をかけることになるのです。
 私たちが著者に要求できることがあるとすれば、それはただ彼が良心によって物を書き、私たちに何物かを教える能力を持つことだけです。
 しかも私たちには、もし私たちがこれに耽ると、明らかに自分を卑しくするような本を避けることができます。
 そして、それは2つ目の質問につながるのです。
     何を読むべきなのか?
 私たちが読む物は何でしょう?
 それは、新聞です。
 新聞を読むことが私たちにとって必需品になっていること、そして新聞が迅速に、(時には)良心的に知識を与えてくれることを否定する人はいないでしょう
 もっとも、それは傲慢ではありますが。
 新聞は、毎日、私たちにあらゆる種類の興味深いことを教え、他の多くの読み物への道を示してくれます。
 朝、ベッドを出るやいなや、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカを新聞上で駆け巡ります。
 そして同時に、その日のニュースのさまざまな項目を読者に提供します。
 ブローカーのジェンセン氏がオルドルプの田舎に滞在しているとか、画家のラーセン氏がホーン地方で夏を過ごしているとか、興味深い情報を得ることもあります。
 ときに私たちが新聞を読むとき、自分自身の意見、時には他人によって植えつけられた偏見以外の何物でもない意見を、自分たちよりもうまく活字で表現されたものだったり、弁護されているものを見たいという欲求に駆られます。
 愚かな新聞の愚かな読者は、あらゆる種類の私的なスキャンダルが詰め込まれることを期待しています。
 その理由のひとつは、自分たちと反対の意見を持ち、不人気である政治家や文学者が、きちんと貶められるのを見たいためです。
 これはデンマーク独特の弊害と言えるでしょう。
 デンマーク国民が、些細なことに腹を立てるのは、お人好しの証拠でもあります。
 他の国々が闘牛、闘鶏、血生臭い拳闘を楽しむのと同じように、デンマーク国民も新聞に掲載されるあらゆる種類の個人的なスキャンダルを喜んでいるのです。
 新聞読者に望むことは二つしかありません。
 ひとつは、好きな新聞を、批評能力を多少なりとも鍛えながら読んでほしいということ。
 もうひとつは、新聞を読むことに満足しすぎて、他のこと(特に読書)ができなくならないようにしてほしいということです。
 私は、この論文の冒頭で、一定数の本がすべての人にとって最良の本であるという意見に異議を唱えました。
 ただし、一般的に、永続的に読むのに最も適していると考えられている書籍が 一つあり、それこそが「聖書」です。
 しかし、人類の大部分が全く読めないことをこれほど決定的に証明した本はほとんどありません。
 いわゆる旧約聖書は、よく知られているように、おおよそ八百年間にわたって私たちに残された古代ヘブライ語文献すべてと、いくつかのギリシャ語の本で構成されています。
 それには、最も多様な価値と最も多様な起源を持つ著作が含まれており、それらは比較的最近編集されたテキストとして私たちに伝えられ、多くの場合破損し、際限のない改ざんによって損なわれています。
 それらの著作は原則として、書きもしなかった人たちによるものとされており、そのほとんどすべてが理解するのが難しく、読んで少しでも得るところがあるには、広範な歴史的知識が必要になります。
 旧約聖書の書物の中には、イザヤ書と呼ばれる書物のように、現存する古代詩の中で最も崇高なものが含まれており、正義への最も純粋な渇望、当時地球上で見られた最高の宗教的発展の証人となっています。
  私たちの時代より五百年〜七百八十年前です。
 一方、例えば『年代記』のように、歴史的な記述においては、厳密な正確さを欠くものもあります。
 これら旧約聖書は、新しい教徒の国々においては、教科書としてすべての人々の手に与えられ、美しい伝説ばかりだけでなく、例えばダビデ王の物語のようなものにも見出されていました。
 国民はダビデを讃美歌の作者であると思い込んでいますが、彼は全く関係なく、また読む人もその讃美歌の半分も理解していないはずです。
 しかしながら、誰もが認める「最高の」本(聖書)がすべての人にとって良い本とは言えないのであれば、古典はなおさらです!
 裕福な家庭のほとんどでは、いわゆる古典作品がすべての本棚にあります。
 しかし、驚くべきことに、それらは主に見せかけのものとしてそこに立ててあって、めったに読まれることはありません。
 またはまったく読まれず、理解できているかどうかは、単なる偶然であるため、読まれてもほとんど喜びを感じていないというのが事実なのです。
 古典作家は前の世代に向けて書いており、彼らの作品には通常、その後の世代には異質な内容が多く含まれています。
 そのため、今を生きている人向けに書かれた本から始めるのがおそらく最善でしょう。
 若い人たちはこれらのことをよく理解しているでしょうし、そういう本を通じて、過去の偉大な作家たちへの道へとつながっているはずです。
 
 繰り返しにりますが、古典は、所有者の見栄として、それぞれの本棚に並んでいることが少なくありません。
 多くの場合、所有者は個人的な愛情を持っておらず、また、どこかに惹かれたわけでもなく、社会的地位が必要だからという理由だけでそれらを所有しているのです。
 もっとも、こういうようにして所有しているものが、良書ではあるものの、あまり大きな名誉になることはありません。
 
 と言いますのも、それらの良書は自分で選んだわけではないためです。
 しかも、それらの多くは過去の良書であっって、現在の良書であることは稀です。
 
 凡人は、新しい考えや新しい形式を嫌います。
 天才は、よほど長生きしない限り、生涯に渡って、常に多数派に反対されます。
 彼らが認知されず、死んでいくのはまったく不思議なことではありません。
 たまたま天才が認識されることのほうが不思議なのです。
 認められる要因の一つとして、天才が人に及ぼす強制的な威力があります。
 良いものが平凡な集団の中に入ると、侵食力をもって深く入り込む傾向があります。
 ただし、それ以上に大きな要因として、少数の目利きや芸術の批評家たちが、声を大にして長々と良書の価値を宣伝することで、愚かだと言われるのではないかと怯え、あたかも体臭が催眠術にかかったような作用を与え、大衆は良いものを良いと信じ込み、やがてそう考えることに慣れ親しむようになっていくのです。
 もちろん、共通の堅実な教育的基盤を目指し、子どもの手に冒険物語「ロビンソン・クルーソー」や「オデッセイ」を読ませたり、少年少女に「ウォルター・スコット」を読ませたり、青年に「ファルスタッフ」と「ドン・キホーテ」を読ませることは正しいことです。
 また、若い世代には、シェークスピアやゲーテの作品を最も親しみやすいものとして教えてあげるのもいいことです。
 しかし、一般的なものから少し外れた著者や本を愛する人々が極めて少ないのは、凡人であることの一つの証明でもあります。
 たとえばイギリスの歴史家ギボンは、もはや一般に読まれていません。
 しかし、私は「ローマ帝国の衰亡史」を一度ならず何度も楽しみながら読んだドイツの画家兼詩人を知っています。
 ギボンの広い視野、知的自由度の高さ、並外れた描写力は彼の作品に永続的な価値を与えており、この読者にとってギボンは歴歴史記述の巨匠です。
 デンマークでは、画家のクリスチャン・ツァルトマンがレオノーラ・クリスティーナの「ジャマースミンデ」を何年にもわたって何度も読み返し、この本が彼の一部となり、独創的で重要なインスピレーションを与えていきました。
 彼がその本を読んだように、私たちは自分にとって最も価値のあるものを読むべきです。
 ただ、残念ながら、私たちの中にはそのような強力的な独創性や特異性はほとんど持ち合わせていません。
 これこそアルツール・フィトガーが教えられるところの最も大きい史学の大家ギボンを見出した理由です。
 ここで、あなたは、自分の興味を直接惹きつける良い本をどうやって見つければよいのかと疑問に思うことでしょう。
 これは確かに難しい問題です。
 そのような本を見つける確実な方法を示すことは、知り得る限り最も楽しく、最も有益な人々と知り合うためのルールを定めるのと同じくらい難しいです。
 できることは、自分の目的とは違う場所へ導くようなものは、道は避けることです。
 他の方法で情報を得ることができるので、自分で本を読む必要はないと考える人もいます。
 そういう人は、いわゆる全体がわかる一覧表のようなものを最も好みます。
 そして、できるだけ広範囲の一覧表さえて手に入れば、たくさんのことを知れると信じているのです。
 世界の創造に始まり私たちの時代に終わるような本、いわゆる世界の文学史と呼ばれる大系のような本を熱心に手に入れようとします。
 ところが、これこそまさに、最も有害で警戒しなければいけない種類の本なのです。
 このような本を書ける人間は一人もいないですし、このような本は、教訓を与えるよりも、唖然とさせることの方がはるかに多いのです。
 このような世界文学史の著者は、五十の言語で書かれた著作について詳しく語っており、著者自身の知っている知識というのは、そのうちの数カ国語だけだったりします。
 もし彼が生まれる前から読書を始め、本を出版するまで他のことは何もせず、人生を楽しむこともなく、寝ることもなく、食べることもなく、飲むこともなく、ただ読書だけをしていたとしても、彼が語りかつ批判する本のほんの一部しか読むことはできないでしょう。
 結局、彼は不完全な知識を通して、他人に教えようとしているため、あなたが彼から教わることも、彼の知識と同じように不完全なものになってしまいます。(しかし、そのことに気づける人はほんどいません)
 本当に教えようとする本は、ひとつの国、または限られた期間のどちらかを取り扱う必要があります。
 期間が短ければ短いほど良いといえるかもしれません。
 対象が狭ければ知識的に狭い本ができるというわけではありません。
 偉大で包括的なものは、膨大な分野を網羅しようとする著者の努力によってではなく、取り扱うものの素晴らしさ、著者の視野の広さによってのみ生み出されます。
 無限そのものは、それ自体ではたいしたものではなく、個別のものを象徴的に取り扱ってこそ、そこに無限が生じていくのです。
 自然科学者の中には、たった一匹の昆虫を扱うことによって、大自然の神秘な扉を開くことが可能な人もいます。
 同様に、偉大な作家は常に自分の主題を象徴的に取り扱うはずです。
 たとえ短い期間や個人について書く場合でも、対象の描写、対象の説明、対象への解釈という三つの部分を通して、常に、あらゆる進歩の法則、あらゆる知的活動の法則を明らかにしていこうとします。
 したがって、膨大な一覧表は避けてください! 百科事典に置き換えてください!
 百科事典は自分に個性があるなどなく、物事をありのまま、正確な情報を取り扱っているものなのです。
 昨今、いわゆる一般教養(その言葉は恐れ多いですが)に対して、一般の人たちはひとつの迷信を持っているようです。
 一般教養を得るために本を読むと、さまざまのことが安易に学べてしまうため、結果的に何の教養も生まれてきません。
 私たちはある時、クジラについて、コンゴ国家について、今の演劇について、歯について、バイエルン州の社会主義について、今のセルビアの民謡について、今の1830年の革命について、さまざまな事実の集まりを読んで、そして私たちは漠然たる知識を得ようとしています。
 しかし、実際に何かを成し得る人というのは、何らかの特殊なことができる人のことです。
 この特殊なものから全般的なものへと至る窓が開いているのです。
 反対に、純粋に一般的な知識から特定の種類の知識に至る道ははるかに少ないです。 
 
 それでは、「何を読めばよいでしょうか?」という質問に対して、どう答えればよいでしょうか?
 それは、
 「100の異なる事柄について書かれた百冊の本を読むよりも、一つの事柄や一人の人間について書かれた十冊の本を読んだほうがずっと良いです!」と答えるべきです。
 ある人が、英国国会の討議について知りたいと思ったとします。
 議会の議事録を集めた速記録である「ハンサード」を手に取り、何十年か、あるいはそれ以上の期間に渡ってその議事録に目を通そうとすることに意味があるでしょうか?
 そんなことをしたら、ほとんど間違いなく気が狂ってしまうはずです。
 一方、私はイギリスの政治家であり小説家でもあるビーコンズフィールド卿に非常に興味を持ったことがありました。
 私はまず、彼が書いた小説や物語を読み、その後、彼の公生涯の歴史を追いました。
 結果的に私は、国会での彼の演説も聞くようになりました。
 私の興味は常にひとつの中心点があったため、自分には何の関係もないことについても、私の心を捉えるようになっていったのです。
そしてさらに単にビーコンズフィールド卿のスピーチだけでなく、ビーコンズフィールド卿の同僚、ビーコンズフィールド卿への攻撃者や反対者の演説までもが私の興味対象となっていったのです。
 彼にはたくさんの敵がいたのです。
 さらに、そのような敵対者おのおのにも独自の人格が備わっていました。だから、彼らにもまた興味が湧いてきたのだと思います。
 このようにして、ビーコンズフィールド卿のことだけではなく、遠い英国政治史のかなりの期間が私にとって非常に魅力的なものになっていったのです。
 
 したがって、私のアドバイスは、読者として興味を持った人や物事を見つけたら、すぐにそれをつかみ、それに没頭することです。
 そうすることで、千の物事や人に夢中になるよりも千倍多くのことを学ぶことができます。
 対象はあなたの視線の先に広がり、次第に地平線全体へと広がっていきます。
 決して地平線から始めてはいけません。
 そうしないと、その間に何があるのか何も理解できなくなります。
 結局のところ、本当に重要なのは何を読むかではなく、読み方にあるのです。
 もちろん、質の悪い本に読み耽って、そのことに関わるのは時間の無駄だと言っているわけではありません。
 確かに多くの人たちが、「危険な本」に対して警告を発するのは当然のことです。
 実際に危険な本は危険なことが多いためです。
 しかし、こうした危険な本とは、若い読者の官能的な衝動を推測したり、怠惰や軽薄さに訴えたりするものだけでなく、卑俗で低俗なものを立派なものとして表現したり、偏見を流布したり、自由主義的な考え方や自由の追求に憎悪の光を投げかけたりするものも含まれます。
 有益か有害か、危険か安全は、相対的な概念なのです。
 例えば、インゲルマンが書いた歴史小説のような、人間の本質を幼稚さに、そしてその程度を漫画にして描き出したとしても、10歳から12歳の子どもに手に渡しても大きな危険にはならないでしょう。
 それよりも、歳が少し入った子供達には、あまり役に立たないだけでのことです。
 つまり、一般的に、大人には栄養分にならない本であっても、子供たちの喜びや栄養分になることは多々あるということです。
 他方で、何の悪意もなく書かれたものではなく、状況、悪徳、義理人情と義務の間の葛藤を描写した本に対して、未熟な読者の手に委ねることは賢明ではありません。
 しかし、だからと言って、心が成熟した人たちや心が安定している人に対して、それらの本を読むことで必ず悪い影響が出るというわけでもなく、本の価値が下がらない本もたくさんあるのです。
 危険な本に劣らず悪いものに、退屈な本があります。
 人を退屈にさせる真面目さや博識に対して、一般の人たちがある種の敬意を抱いているのは、気の毒な迷信です。
 疲弊させるまたは退屈にさせる本は、人々の知識の習得を妨げます。
 例えば、歴史はしばしば恐ろしく退屈なものですが、それを一種の義務だと考えて読み続ける忍耐強い人々がどれほど多いことでしょう!
 専門家として情報を求めているのでない限り、埃のように乾いたものに時間とエネルギーを浪費してはいけません!
 歴史はあらゆる題材の中で最も興味深いものであり、そうあるべきです。
 私の考えでは、たとえ実在の人物をモデルとして描かれていたり、架空の人物よりも、実在の人物について読む方がはるかに興味深いのです。
 歴史家は時として、あまりに労を惜しまず仕事をします。
 その英雄の性格や動機を理解するために深い知識を得ようとせず、単に外から学んだことだけで人物を描写することがあるのです。
 ある晩、私はドイツの大学都市で、歴史学の小柄な教授のそばに座っていました。
 彼は、メアリー・スチュアートの恋人であり、ダーンリーを殺したスコットランドの荒々しい伯爵、ボスウェルについての本を執筆中だと教えてくれました。
 私は思わず叫び、 「あなたには、彼の気持ちに入り込むのはとても難しいことでしょうね。」と言ったら、「そんなことはありませんよ。資料は全部あるのですから。」と答えました。
 何年も経った今でも、私はこの返事を覚えています。
 文書はそこにありましたが、生命への活力や著者の個性はありませんでした。
 対照的に、カーライルの『クロムウェル』とその『フリードリヒ大王』の第一巻、またはミシュレの『フランスの歴史』とモムセンの『ローマの歴史』などを読んでください。
 ここでは、どのページにも登場人物たちが生き生きとしていて、私たちに会いに来てくれているかのようです。
 しかし、何を読むべきかという問題は、この問題だけを切り離して答えることはできません。
 これはどうしても次の問題につながっていくためです。

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